たまごや日記

日記だから文章はてきとう。過去の私と今の私の間には別人になるようなエピソードが挟まっているかもしれません。

いのちをいただく

コメントのお返事では長くなりそうなので、今日のトップ日記について、私の思うところを書いてみようと思います。
まず、私が気にするかどうかですが、ちょっとは気になります。どうだったっけー?と言う程度に。
が、形式よりもどう配膳すると食べやすいかの方に圧倒的に重きを置いています。
その結果、基本の配膳どおりに置いていました(笑)
しかし、そもそも「一汁三菜」の食事であることの方が珍しいので、基本も何もあったもんじゃありません。
汁物は無いときも多いし、お茶は好きだし、喉は渇くから最初から緑茶飲んでるし*1、相棒はお気に入りの寿司屋ででるようなでっかい湯飲み使ってるし、私も最初からたっぷり飲みたいときはマグカップで飲むこともあるし…
時々配膳の時、相棒と「どっちだったっけ?」と言う話になって、家庭科でもならったのにね〜なんて言いながら、結局どう置くと食べやすいかで並べています。
私と相棒の「儀式」や「形式」に対するスタンスは、「基本は気になる人優先で、それにならうために多大な苦労や犠牲を払う必要がなければなるべく従おう、でも無理があるようならすっぱりやめよう」とはじめから一致しているので話が早いです。
あ、こどものお食い初めの時はご飯と汁物だけではなく、全体の構成自体わからなくて本で探したので(地域によっても違うし…)、「いざというとき」からははずしてあります。


でもね、訳が分かっていてどうしても気になる人の気持ちも分かります。
というのも、逆に置くのって、仏様、つまり、自分と向かい合った仏様のための配膳、になるんですよね。たしか?
そういうことが絡んでくると、気にする人に気にするなという方が無理というもので、だったらお互いを思いやって、基本に従ってしまえばいいだけです。
気にする人はそうでない人を見下さず自分にあわせてもらったことをありがたく思う、気にしない人は意固地にならない。重要なのはそこでしょう。


そして、配膳についてはとやかく言わない私も、食事で気にすることがあります。
それは、「いただきます」「ごちそうさま」をすること。
仏教的なものもあるのでしょうが、やっぱり、他の生き物〜決して「動物」だけでは無い〜の命をいただいているんだから、それは感謝しないといけない。
更に、その食事を作ってくれた人に対する感謝、食事ができることへの感謝、そういうことを認識するために必要だと思っています。
そして、感謝の意を込めて、あらかじめ食べられる量だけを分けてもらい、きちんと全部食べる。
体調などの理由で食べられないときは仕方がないけど、残ったものを後で食べられるようならそうする。
それが大切。と、思っています。


大切なものは何か?
形式を形式だから採用することではありません。
配膳をネタに、ある種の嫌らしさを感じさせる記事を書いた人と、それに更に嫌味なタイトルを付けた人にこそ、よく考えてもらいたいです。

*1:これは地域によって、いろいろカルチャーショックがあるようです。友達から面白い(?)話を聞いたことが…またの機会に(笑)