たまごや日記

日記だから文章はてきとう。過去の私と今の私の間には別人になるようなエピソードが挟まっているかもしれません。

子育てって言うのは

ふと、子育てって言うのは、暗く厳しい、どろどろとした大変さ(まとめて大変ということにする)の中に、思いがけずすばらしい輝き(幸せと言うことにする)を見つけるようなもんだなあと思った。
毎日むちゃくちゃ大変だし、大変がいっぱいある事はいくら言っても言い足りないし(まあ、私の場合はこども本人にではなくて、現代の自分の子育てに不向きな状況を作り出しているものに対して腹が立ってしょうがないと言う方が正確かもしれないが。)、何度も倒れてるし、今だって機嫌よくおもちゃで遊んでるけど、妨害をうけ中断しつつ書いてるし、それでもこどもがいて育てることの幸せは比べ物にならないほど大きい。


でもやっぱり確実に、量で言えば、積分しても大変の方が大きいと思う。
しかし一つの大変が終わった頃に、ふと振り返ってみると、暗くどろどろして時にはぬかるみにはまって動けなくなったということはわかるんだけど、具体的にどう大変だったかは暗くてわからなくなっている。
一面に広がる暗くどろどろしたものは、暗くどろどろしているな、と言うことがわかるのみで、その中に散らばるさまざまな輝きは、まるでついさっきのことのように鮮明に思い出せる。
どんなに暗い部分が広くても、輝いている部分はとてつもない光を放ち、そこに近ければ近いほど暗さはかすんで、輝きでいっぱいになる。
それは大きい輝きも、小さい輝きも、どれもものすごく明るくて、少なくともそれがあるところの暗いものは見えなくなってしまっている。


その暗さの中には、こどもがお腹にやってきたときからの不安と言うもっと厄介なものも入っているのかもしれない。
ただ、私個人的には、やってきた最初の喜びの輝きに気をとられて、不安の暗さに気付かなかった。
そういう方面に鈍いことが、気付かないうちに不安を感じさせなかったことはラッキーだ。
中には、輝きを大事に大事に抱え込みすぎて、光が届かず、暗い不安に押しつぶされそうになっている人もいるって言うのに。
暗い不安があることをわかりつつ、輝きで照らして、たまにつわりやらお腹の張りやらと言うことで、ちょっとつまづいたり足をとられたりした時に暗さが気になって、でもおちついたらまた輝きとともに進んでいく人が大半なのだろう。
そしてこどもが生まれるとき(分娩)から、その暗さは多くが不安から大変に変わって行く。


一つの大変が終わったからと言って大変が減るのではなく、また別の大変が始まるし、未知の未来に対するこどもを大切に思うがための不安は相変わらず広がっていて、やっぱりこの先の暗い不安を心配しながら、現在の暗くどろどろした大変の中を歩いていくんだけど、相変わらず手の中にはこどもという輝きがある。
こどもの数が増えると、輝いてはいても手で大事に抱えていくのは大変になるけれど、その分明るくなる。
そして、歩いてきた大変が増えれば増えるほど、振り返ったときにちりばめられた輝きも数を増し、相変わらずの強い光で遠くの暗いところは本当にかすんでわからなくなっていくんだろう。




そんなイメージがふと浮かんだ。
でも、これは、まともな子育てをしている人なら、それぞれのイメージであたりまえに心の中にあり続けるものなんだろう。
これからこどもを持ちたいのに、不安ばかりが大きくこどもを持たないでいると言う人に、大変と幸せがうまく伝わればいいんだけど。