たまごや日記

日記だから文章はてきとう。過去の私と今の私の間には別人になるようなエピソードが挟まっているかもしれません。

いただきます

ちょっと頑張ってみ書いてみる。


http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/news/20060121ddm013100126000c.html

ちなみに私はほとんどの食事で自然にいただきますを言う人。
相棒もそうなので、こども達は自然にそうなった。


「ほとんどの食事」としたのは、自分はどうかと考えてみた時、とにかく急いでこどもたちに支度させなきゃいけない朝や、ほんっとうにおなかさえすかなきゃ食べないのにというくらい義務感で一人食事をする時には言っていないときもあるような気がしたから。


この記事を読んですぐは、ものすごく短絡的に「いただきますを言わないなんてどんなしつけされてきたんだか。」なんて思ってしまったけど、確かにそれを宗教的なものととらえると、不快な気分になる人が出るのはもっともだと思えた。


とりあえず、自分はいただきますを言うし、こどもに言うようにしつけている。
もちろんその時にはなぜいただきますを言うのかと言う理由も話す。


・ほかの生き物の(当然植物も!)の命をいただくということ→食べられる量を考え、残さず食べなさい
・作ってもらった人に感謝すること→調理はもちろん、生産者の人たちにも
・自分が飢えることなく、平和に食事ができるという状況をありがたいと思うこと


これが主な理由。


それとは別に、まだ生活習慣をつけている段階のこどもにとっては、気持ちの切り替えを促す意味での「合図のためのいただきます」は大きな意味を持つ。
きちんとお膳がそろい、食事の準備をする人も席に着くまで「手はおひざ」で待てるように。
そうしないと、こどもは、食卓を引っ掻き回したり、だらだら食べになったり、早く食べ終わって好きなおかずだけ人のものを欲しがったりしてしまう。
実益を兼ねた「我慢」をする練習に入りやすくするための行為と言う位置づけだ。
また、こどもに限らず、人に準備させている間に先に食べ始めたり、外食で相手がどうぞと言わないのに自分の方が早く出されたらすぐ食べだすと言うことをされると私自身が嫌だから。
これは、食べると言う行為を通して、人を尊重できる人間かどうかの指標になっていると思う、つまり、「自分さえ良ければいい」という気持ちが強い人だと感じるから。
とはいえ、私は食べるのが遅いので、たいていの人は一緒に食事をすると、先に食べるようにすすめてくれるのでそうするし、先に食べ終わってもせかしたりそわそわしない人には先にどうぞとすすめるが。
要は、一緒にいる人を尊重できているかどうか、ということ。
ちょっとそれたか。


あと、「お金払ってるんだから」的な考えは傲慢で嫌い。
別件で、口ではどう取り繕っても、心の奥底では所詮「世の中金持ってる人が偉い」と考えている人のなんと多いことかと最近しみじみ感じた(しかも、本人にその自覚はなさそう)んだけど、金じゃないよ。大切にすべきは人だよ。
食べ物の提供に限らず、店側が、お客様を大切にする時にその考え方を使うのは、サービスを提供する側の姿勢として大切だと思うけど、その逆は違う。
店側の場合は、相手を大切にすることにつながるが、客側の場合はそれこそ正反対になってしまうからだ。


だれも一人で生きているわけじゃないんだから、バランスをとりながら仲介していくモノとして以上に、金に惑わされてはいけないよ。


と、また少し脱線。


で、いただきますの宗教的意味なんだけど、私の理由付けにも、仏教の影響はたぶんあるだろう。
仏教以外の宗教でも、食事前に儀式を行うところはあるけれど、全世界的に見たらどうなんだろう?
これについては知らなさ過ぎるからなんとも言えないが、仏教的意味を撤廃しても、ご飯が食べられて良かった、的な感謝の気持ちは必要だと思う。
それがあれば、確かに意味無く合図だけの「いただきます」は不要かもしれない。
しかし、それを忘れないためには、何らかの儀式として必要かもしれない。


私は、仏教をたぶん内包しているであろうが、自分の思いとして、これからもいただきますを言うし、常に言う(儀式を行う)人のほうが好きだし、こどもに言うように教えていく。


http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/women/obasan/news/20060114ddm013070062000c.html
最後に。これを対比させてみるとなかなか滑稽だ。